1st「トゥ・ファスト・フォー・ラヴ」
モトリー・クルー
LAメタルの申し子ポイズン
ボンジョヴィ |
世界の大物や有力な新人たちが活躍する中、ヴァン・ヘイレンに遅れること4年、モトリー・クルーがデビューする。彼等のデビューアルバム、82年の「TOO FAST FOR LOVE」は、実は前年の81年にバンド自身が自主制作してインディー・レーベルから発売していた同名の物を、ヴォーカルの録り直しやリミックスをし直して発売された物だが、これが発売されるや否やいきなりゴールド・ディスク獲得という快挙を成し遂げる。彼等のそのやたらと厚化粧した顔に、鋲やチェーンなどのアクセサリーで飾られたきわどいデザインのレザー・ファッションは、グラマラスでもあり、パンキッシュでもあった。そしてそのルックスは、当時、人々に刺々しい妖しさと危険性を感じさせた。そんなルックスのバンドが開局したばかりのMTVでも次々とプロモーション・ビデオを流し、もちろん、ビデオでもクルーは自分たちのイメージを徹底的に打ち出したものだから、アメリカの学校などでは生徒がモトリー・クルーを聴くことを禁止するところもあった。
とにかくモトリー・クルーは続く83年の「シャウト・アット・ザ・デビル」、85年の「シアター・オブ・ペイン」が出る頃にはその名を全米のみならず世界中に轟かせていたのだった。
このモトリー・クルーの活躍により、アメリカ(特にクルーが本拠地としていたロサンゼルスから)は、ラット、シンデレラ、ドッケン、ポイズン、ファスター・プッシー・キャット、ツイステッド・シスターなどのへヴィ・メタバンドが登場してきて、80年代のL,Aメタル・ブームという現象が形を整えることになった。
彼等は皆、注目を集めた時期がほぼ同じだったためにその人気は横一線といったぐあいで、バンドのイメージも同じジャンルの音楽をしている為か、ほぼ一緒だった。プロモーション・ビデオなどを見れば良くわかるのだが、大体のバンドが胸元あたりまで伸びた長髪にソバージュが掛かっており(長髪にソバージュは70年代からあるハード・ロックの基本的な髪型だ)引き千切れたタンク・トップやレザー・パンツなどの体の露出度の高い衣装で、メンバーは大体みんな美形をそろえている。
プロモーション・ビデオの内容の方も、バンドのそのド派手なライブの様子や美女をはべらせていたり、美形メンバーがその魅力を「これでもか!」と前面に押し出しているセックス・アピールの強い物や、後はヴァン・ヘイレンの「ホット・フォー・ティーチャ―」に代表されるような十代の生活の基本的な場となる学校を舞台にしたものなどなど、多少ストーリーがあるみたいなのだが、その意味はまったく解からないといったものが多かった。
また、ヴァン・ヘイレンのギタリスト、エディー・ヴァン・ヘイレンが一風変わったギター(形はフェンダーのストラトだが縞々の塗装の入ったデザインが斬新)を持っていたのが原因だと思われるが、ヘヴィ・メタバンドのミュージシャンたちは自分のトレードマークとも言えるようなオリジナルの変形ギターを持ち始める。それまでの大物ギター・リスト達にもそれぞれトレードマークのようなギターはあったが、そのほとんどが大手メーカーの規制規格品を自分好みにチューン・アップしたもので、自分でデザインして自分で組み立てたのはハード・ロックではクイーンのブライアン・メイぐらいだった。
しかし80年代に入り、これらへヴィ・メタバンドがオリジナルな楽器を欲しがったことで、楽器製造メーカー各社は、ミュージシャンの要望を取り入れた楽器を開発し、そしてそれを店頭でも市販するようになった。とくに楽器メーカー「アイバニーズ」の、スティーブ・ヴァイ(ホワイト・スネイクに在籍していたギタリスト)モデルは、いまだにニュー・モデルが発表されるほどのロング・セラーとなっている。
しかし、一世を風靡したヘヴィ・メタ・ブームも、長くは続かなかった。ボンジョヴィの「ニュー・ジャージー」(88年)、ポイズンの「初めての・・・AHH!」(88年)、モトリー・クルーの「ドクター・フィール・グッド」(89年)、アリス・クーパーの「トラッシュ」(89年)、デフ・レパードの「ヒステリア」(91年)といった、モンスター級のヒットを飛ばしたのを最後に、その黄金時代に幕を閉じる。
LAを拠点としていたバンドに限らず、80年代前半〜半ばにデビューしたヘヴィ・メタル系のバンドは、90年代に入り急速に廃れ始め、HM/HR系のバンドでは、かすかにメタリカ、ガンズ・アンドローゼズ、スキッド・ロウなどが、新しい時代の波に乗り、新たなHM/HRファンを開拓していく・・・。
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