アメリカの多くのミュージシャンがイギリス勢の勢いに押されていた当時の状況下でも例外はあった。アメリカはデトロイトに本拠地を構えていたスティーヴィーワンダーやシュープリームスなどを配していた黒人音楽の老舗「モータウン」だけは、こういったイギリス勢の進出に動じる事もなく常にチャートの上位をキープする事が出来た。これは、リズム・アンド・ブルースが、ビートルズやフォーク・ソングとは、全くファン層が違った事に拠るだろう。
さて、ボブ・ディランによって開拓された、当時のフォーク・ブームについてだ。当時、ビートルズをはじめとしたイギリス勢が渡米した頃のアメリカでは、若い大学生を中心に当時のアメリカで起こっていた「公民権運動」や「ベトナム戦争」への介入に対し問題意識を持っていた学生運動の波が、にわかに広がっていた。こういった運動家達に支持されていたのがボブ・ディラン等のフォークミュージシャン達であって、当時はボブ・ディランをはじめとした、社会に対し問題意識を持った曲を唄っていたフォークシンガー達をひとくくりに「プロテスト・シンガー」と呼んでいた。そしてフォーク支持者たちはラヴ・ソングが中心であった、当時の型にはまったロックを嫌い、社会風刺的な詩世界のあるフォーク・ソングを好んでいたのである。
ボブ・ディランは62年のファースト・アルバム「ボブ・ディラン」(アルバム名)では、ほとんどの曲が自作ではない、カバー曲であったが、続く63年の「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」でいよいよその独自の詩世界を打ち出してゆく。そしてここから63年のサード・アルバム「時代は変わる」、64年の「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」でボブ・ディランはフォーク・ファン達からの厚い信頼と支持を得たのであった。
特にセカンド・アルバムに録音されている「風に吹かれて」や「戦争の親玉」などの歌詞は、反戦や人種差別をモチーフにした歌詞が歌われ、運動家のフォーク支持者たちにスローガン的な曲として扱われる。
アメリカにやって来ていたビートルズは、このような音楽が社会運動と結びついている状況に驚いた。しかも、ビートルズのジョン・レノンはボブ・ディランと話し合ったときに、ボブ・ディランに「君達の音楽には主張がない」とまで言われてしまっている。以降ビートルズは、音楽的な変化と同時に、詞の内容にも思想的なものが増えていき、その活動内容にも社会運動的なものが増えていくのである。
その一方でボブ・ディランもまたビートルズの影響により、それまでアコースティック・ギターだったものをエレキ・ギターに持ち替え、1965年に発表したアルバム「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」はロックサウンドを取り入れたものとなり大きな波紋を投じた。そして、アルバム発表の同年に開かれたフォ―クフェスティヴァルでディランが大掛かりな機材を持ち込み、大音響でエレキ・ギターを鳴らすのに対し頑固なフォーク・ファン達は猛反発し、ディランは仕方なくステージを降りたのだが、関係者に説得され一人だけで再びステージに戻り、アコースティック一本で「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」(すべておしまい)という曲を演奏した。
しかしながらこのディランのアルバム「ブリンギン〜」は全米6位、全英1位に輝きディランのそれまでのどのアルバムよりも売れたのであった。このアルバム以降ディランは歌詞の中に社会問題をテーマに取り上げているような曲は身をひそめていき、その活動スタイルも徐々に社会運動的なものから離れていくのであった。
といっても、60年代の前半はビートルズを筆頭としたイギリス勢がアメリカにロックの逆輸入をしたのを皮切りに米英双方の若いミュ―ジシャン達がお互いに刺激しあい、音楽的な面で大きく変化していったのと同時に、ロックン・ロールが若者たちの間で社会運動のシンボルとして支持されるようになりはじめた時期であったことは間違いない。
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吟遊詩人からオピニオン・リーダーへ

名曲「ライク・ア・ローリングストーン」
収録の「追憶のハイウェイ61」
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