80'S POPS 17.アメリカの反撃とガールズ・ポップ


マイケル・ジャクソン
「スリラー」


映画顔負けのPV







マドンナ
「ライク・ア・バージン」








シンディ・ローパー
「シーズ・ソー・
アンユージュアル」





ガールズバンドの
バングルス



イギリス発の
バナナラマ





ディッド・ボウイ
80年代 会心の一作
「レッツダンス」



ヒューイ・ルイス
&ザ・ニュース



ケニー・ロギンス
「フットルース」「トップガン」
の主題歌を作った
天才ヒットメイカー




ホール&オーツ
80年代を代表する
ポップス・デュオ




「ウォーク・ディス・ウェイ」
MV




素顔を見せたKISS
 アメリカの反撃は、マイケル・ジャクソンから火を噴き始める。
 マイケル・ジャクソンは70年代に「ジャクソン・ファイブ」という人気兄弟グループで子役スターとしての地位を築いていたが、70年代末期、成長してからは子供時代ほどの人気は得ていなかった。そこで、1982年、22歳になったマイケルを今こそ売り出そう、という計画がレコード会社に出てくる。
 したたかなレコード会社は、そっくりそのまま、今までイギリス勢が考え、使ってきた「映像と音楽」「ファッション性」「セクシーさ」といった手法を用いて、反撃したのだ。レコード会社はマイケルを100%スターにする為に、100%売るために、桁外れのあらゆる準備をしたのである。

 そうして82年に売り出されたのが「スリラー」だ。ゲスト・ミュージシャンには、ポール・マッカートニー、エディー・ヴァン・ヘイレン、スティ−ヴ・ルカサー(TOTO)といったビッグネームを配し、シングルのビデオ・クリップは総額2億円を費やし製作された。
 
もちろん全・英米ナンバー1、全世界で4000万枚の売り上げを記録し、ギネス・ブック入り。シングル・カットされた7曲は全部トップ・テン入り。グラミー賞も8部門独占。37週(約半年)ナンバー・ワンをキープした。

奇抜で、ミュージカル映画の様なビデオ(今夜はビート・イット)、ファッショナブルで、洗練された男の魅力を出したアルバム・ジャケット、セクシーでワイルドな腰振りダンス・・。全て、計画通り売れに売れた。この勢いに乗ってアメリカは、一気にイギリス勢を突き放していく。

「スターになるの」と言って17歳で大学を中退し、たった35ドルをポケットに突っ込んで、単身ミシガンからニューヨークに渡り、孤軍奮闘、自分の売込みをしていたマドンナは、ワーナー(レコード・会社)により発掘された。84年、「バーニング・アップ」でデビューする。そしていきなりシングル・カットした「ラッキー・スター」が全米4位となり、その名を知らしめた。

全く同じ頃、ニューヨークで売れないシンガーとしてほっつき歩いていたシンディー・ローパーも、ポート・レート・レコードという会社に見出され、「シーズ・ソー・アンユージュアル」でデビュー。これがファースト・アルバムにして全米ナンバー1ヒットが2曲(!)という、女性としては史上初の快挙を達成する、モンスター・アルバムとなる。
 シンディーの魅力は、そのド派手な衣装、オレンジ色に爆発した髪型、カン高い特徴のある声、そして何より、それまでの女性シンガーには見られなかった「アンユージュアル(普通じゃない、イカれてる)」な所だろう。

ファッションとロックが結びついたその頃、多くの若者は「好きな服を好きな様に着たい!」「ファッションで自己表現したい!」という欲求にかられつつあった。「個性の時代」の到来だ。
 今までのロック・ファンの若者たちは、せいぜいライブの日に、バンドのTシャツを着たり、キッスのメイクしたり、髪を伸ばしたりするだけであった。

 デヴィッド・ボウイが出てこようが、アリス・クーパーが出て来ようが、キッスが出てこようが、あんなに「個性的」なのにもかかわらず、誰も日常ではその髪型やファッションを真似しようとは思わなかった。
 何故なら、彼等は「ファッション」として「個性」を出していた、というよりは、むしろ「衣装」として目立つ格好が必要であったからそうしていたのだった。
 しかし、「パンク」「ニュー・ウェーブ」以降のロックからは、「衣装」は薄れ、「ファッション」が優先された。そして「衣装」ではない限り、誰でも「真似」することが出来た。

という訳で、もはやロック・スターと言う側面より、ファッション・リーダー的な側面が重視され始めたバンドやミュージシャンを目の当たりにした若者たちが、個性化しようというのは当然と言えば当然であった。(余談だが、そんな風潮を感じ取ったキッスもメイクと衣装をを脱ぎ捨て、83年のアルバム「リック・イット・アップ」で「素顔」を見せた)

 「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン!」(女の子だって楽しみたいのよ!)と歌うシンディー・ローパーは、そんな個性を意識しはじめた若者たちの、特に同性の欲求を見事に代弁し、体現したといえる。
 全米一位を記録するこの曲の最後のコーラスは「ジャスト・フォロー(私について来て!)」である。ヤング・リーダーとしての役割を意識した言葉だ。そんなシンディーの態度と活躍ぶりに触発された様に、マドンナもヤング・リーダーとしてのイメージを確立し出す。
 84年、マドンナはアルバム「ライク・ア・ヴァージン」を発表。シンディーには無い、「セクシー」さ「スキャンダラスさ」「スタイルの良さ」を前面に押し出し、全世界で2300万枚もの売り上げを記録したこのアルバムで、彼女はファッション・リーダーとしても、アイドルとしても、歌手としても、不動の地位を築いた。
 
シンディーのある意味ストリートっぽい、古着めいたファッションとは違って、その頃のマドンナはスター然としたマリリン・モンロー風のイメージで、他の女性シンガーとの差別化を図った。
 また、マドンナはファッション・リーダーとして、事あるごとに髪をばっさり切ったり、カジュアルなスタイルになったり、ブロンドから黒髪になったりと、イメージ・チェンジを繰り返し、他の追随も許さなかった。
 性的な、個人的な「スキャンダル」「ゴシップ」も、自分の動向がいつも大衆の話題に上る様に、大いに武器として使った。
 もし80年代にツイッターやインスタグラムがあったなら、フォロワー数ナンバーワンは確実にマドンナであっただろう。

ポジティブで自由で行動的な、マドンナを筆頭とする女性シンガーたちは、当時盛んに言われ始めた「フェミニズム」と呼応して、ただのファッション、ヤング・リーダーから「女性のリーダー」という面でも注目され、一躍<ガールズポップの時代>がはじまるのだった。
 バングルス、ゴーゴーズ、バナナ・ラマ、サマンサ・フォックス、ポーラ・アブドゥル・・・。マドンナ、シンディーのほかにもそれぞれの個性を生かした女性達がどんどんシーンに躍り出て、ポップスシーンは一時期の不毛感など微塵も残さぬ盛況振りとなった。

デュラン・デュランなどのニュー・ウェーブの登場と、ガールズポップの人気で活気を帯びてきたロック・シーンに刺激を受けたように、第一線から退いていた大物達もシーンに戻ってくる。デヴィッド・ボウイは83年に「レッツ・ダンス」を発表、同名シングルは世界中で大ヒットし、スターとしての底力を見せ付けた。
 イーグルスのメンバーだったドン・ヘンリー、グレン・フライ等も、80年代に入り、ソロとして復活した。特にドン・ヘンリーの84年に発表したアルバム「ビルディング・ザ・パーフェクト・ビースト」は、マイケルが37週連続一位の中で、シングル・カットされた「ボーイズ・オブ・サマー」は全米一位を獲得、アルバムとしても、全米5位の大健闘だった。

その他にも、スティーヴ・ウィンウッド、ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュース、ブルース・スプリングスティーン、ビリー・ジョエル、ケニー・ロギンスピーター・セテラ、フィル・コリンズ、エリック・クラプトン、ロッド・スチュアート、ホール&オーツなどなど、60年代から70年代にキャリアをスタートさせたベテラン勢が、80年代の音楽シーンを大いに盛り上げた。

ところで、ベテランで健闘していたのはポップス系のミュージシャンだけではなかった。エアロ・スミスも84年にスティーブンとジョーの不和が何とか納まり、86年には黒人ラップグループのRun-DMCがエアロスミスの75年の名曲「ウォーク・ディス・ウェイ」をラップバージョンでカバー。これが世界的な大ヒットとなり、スティーヴンとジョーがRun-DMCと共演するミュージックビデオも毎日のようにMTVで放送され、彼らは瞬く間に「一昔前のおっさんバンド」から「現在進行形のクールなバンド」へと脱皮し、ファン層の裾野を広げることに成功した。
 また、先にも書いたがキッスも83年にメイクを落とし、素顔で復活している。

こうして見ると、80年代はベテランと新人が共存共栄していた時代であったことがよく分かる。
 そんなベテラン達の復活の背景にはヴァン・ヘイレン、モトリー・クルーなど、LAを拠点とする若手HR/HMバンド勢の大躍進があったのだ。

第18話「ヘヴィメタ黄金時代」 続きを読む⇒





    




産廃 許可 行政書士