70年代末期から80年代初期のアメリカのロック・シーンは、半ばネタ切れ状態であった。新人の発掘をしないから、これといってスターも出ない、ベテランのビッグなバンドやミュージシャンは活動停止、または解散状態・・・。せいぜい映画業界と手を組んで、サントラでヒットを生み出し、チャートを賑わすことくらいしか出来なかった。
そんなアメリカのロック・シーンに一種の不毛感が漂い始めた頃、「隙あり!」と言わんばかりに、それを吹き飛ばすかのようなフレッシュな新人達が、海外から押し寄せてくる。
まずオーストラリアからは正統派ハード・ロック・バンドAC/DCがアメリカを制覇。80年発表の「バックイン・ブラック」は全英ナンバー・1、全米4位という快挙を成し遂げた。他にもメン・アット・ワーク、オリビア・ニュートン・ジョン、カイリー・ミノーグなどが、ロック・ポップ問わずアメリカの音楽シーンを賑わした。
同時に映画でも、その頃のオーストラリアは熱かった。メル・ギブソンの出世作「マッド・マックス」シリーズや、あのエンディングは一回見たら忘れられない「クロコダイル・ダンディー」など、今まであまりかえりみられる事の無かった「オーストラリア文化」に注目が集まった時期だった。
さらにドイツ(当時は西ドイツ)からはNENA(ネーナ)が登場し、「ロックバルーンは99」が、ドイツ語の曲として初めて全米チャートのトップ10入りを果たす。さらに西ドイツからはスコーピオンズ、マイケル・シェンカー・グループなどのハードロックバンドもアメリカに進出。
北欧も熱かった。フィンランドからはハノイロックスがご機嫌なロックを掻き鳴らしながら登場し、ノルウェーからはa-haが、スウェーデンからはのちに「ファイナル・カウントダウン」で有名になるヨーロッパがデビュー。
イタリアからはガゼボが出て「I like chopin」を世界的にヒットさせた。
このように、それまでほぼ米英だけで独占していたロック/ポップスシーンに、非英語圏のグループや歌手が参戦し、結果を残すようになってくるのが80年代の特徴である。
これは東西分断への疑問、矛盾、冷戦への疲労感、地球温暖化や環境破壊、アフリカの貧困・飢餓、地域紛争や難民問題など、地球規模で物事を考えざるを得なくなった大衆の意識の変化と、同時に、経済発展により気軽に誰でも海外旅行に行けるようになったことで、世界を見てみたい、感じてみたいといった憧れが先進国の大衆の間に広まったことが影響しているのではないかと僕は思う。
さて、話をロックに戻そう。
60年代に、ビートルズ等イギリス勢の台頭で起った「ブリテッシュ・インベイション」(イギリスの侵略)を覚えているだろうか。ビートルズやストーンズを筆頭に、イギリスのバンドたちがアメリカに上陸し、人気をさらったという出来事である。
上述したようにオーストラリアや非英語圏のヨーロッパ勢の台頭も目覚ましかったが、それ以上に新時代のニュー・スターたちを生み出していたのがイギリスである。第1次「イギリスの侵略」の頃と同じように、今回ももちろんアメリカのヒット・チャートはイギリス勢に乗っ取られる。
その頃のイギリスはアメリカと違って、パンク・ブームの嵐が国中に吹き荒れ、刺激を受けた若者たちは活気と創造力に溢れていた。ピストルズやクラッシュ風の「もろパンクです」というスタイルのバンドもいれば、それとはまた違った、もう少し洗練された形のアプローチで、新しさを出そうとしたバンドもいた。
スティング率いるポリスやザ・スミス、ヴォーカルのボーイ・ジョージが妖艶なカルチャー・クラブ、いまだにアイドル扱いだけど実力充分のデュラン・デュラン、そのグラマラスないで立ちからのちの日本のビジュアル系にも影響を与えたと言われているJAPAN・・・。
また、アイルランドからはU2がデビューする。
これらのバンドは、ニュー・ウェーブまたはニュー・ロマンティクスと呼ばれ、新たなるジャンルとして注目された。
これらのイギリス勢に共通していたのがファッショナブルでありセクシーだったという事だ。
カルチャー・クラブ(ボーイ・ジョージ)のユニセックスな容姿も目を引くが、それ以上に白人と黒人が混合したメンバー編成も斬新だった。
デュラン・デュランはメンバー全員が美形でスタイル抜群、その上各々の作詞作曲、楽器演奏も一流だった。
パンクは、以前にも書いたとおり、音楽的な革命でもあったけれども、ファッションにも大きな影響を与えた。
ピストルズのマネージャー(仕掛け人)であったマルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウェストウッドが開いた「SEX」というブティックでは、「ピンク・フロイドが嫌いだ」と書いたTシャツを飾っていたと言うから、マルコム&ヴィヴィアンのファッション・センスが当時としてはかなり斬新であった事が分かる。(実際、ヴィヴィアンがその後自身の名を冠したブランドで世界的に成功しているのは周知のとおりだ)
だからピストルズは、ある意味においてデザイナー・マルコム&ヴィヴィアンの「ファッションモデル」として利用された面もあったと思う。(事実、シド・ヴィシャスが加入出来たのは、ヴィヴィアンが「この子なら私の作った服を着こなせそう」と思ったからという説もある)
そんなパンクの洗礼を音楽的にもファッション的にも受けたのがこれらニューウェーヴのバンドたちだった。
そして彼ら<イギリス発の華麗でフレッシュな新人>たちは、みるみるアメリカのチャートを席巻して行った。彼等は同時に、そのファッション性を最大限に活用するため、当時まだ開局したばかりで、アメリカ本国のバンドからは軽蔑されていた「MTV」(81年開局)をフル活用した。その活用の仕方は、今までのビデオ・クリップの様式を覆す、画期的なものだった。
それまでのビデオ・クリップといえば、大体がコンサート風景だったり、又はただバンドやミュージシャンが歌って踊ってたりと、ハッキリ言って、「ファンの為だけに作られていた」といっても良いような代物だった。しかしデュラン・デュランやカルチャー・クラブのビデオクリップは、そうではなかった。
たった4分足らずのビデオの中に、(一応)曲に合ったストーリーを展開させ、わざわざロケーションまでし、その上メンバーが(セリフこそ言わないが)結構本格的な演技を見せたりした。また、イギリス勢ではないが、実写とアニメーションが融合したa-haの「テイク・オン・ミー」のビデオなどは、もはや「映像作品」と言ってよいレベルであった。
そんな、まるで映画の様なビデオは、ファンならずとも「観てるだけでおもしろい」と思わせるものがあった。
その「MTV」は、81年にアメリカで開局したのだが、ビデオ・クリップ(今でいうMV・PV)なる物の「型」を作り上げたのは、皮肉にもイギリスを中心とするニューウェーブのバンドたちだった。アメリカやオーストラリアの垢抜けないアイドルやロック・バンドとは違う雰囲気を持つ彼等に、アメリカの若者たちは飛びつき、そのファッションを真似したりした。
ニューウェーブの登場によって、ロックとファッションは完全に結びついたのだった。
「第二のブリティッシュ・インベイション」に、いよいよ焦ったアメリカは、今まで怠ってきた新人の発掘を開始せざるを得なくなった。
アメリカという国は本気を出すと怖いもので、ここから、一瞬にして全世界を取り戻し始めるのだ。
第17話「アメリカの反撃とガールズポップ」 続きを読む⇒
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