90年代は「細分化」「多様化」の時代とよく言われる。木で例えるなら、一つの太い幹から小さな枝がたくさん生えてきて(細分化)、無数の色の違う葉っぱが茂りはじめた時代(多様化)といったところだろうか。
離れて見ると一本の「木」には違いないのだが、近づいてみると、本来芽が出るはずのない所から芽が出ていたり、枝同士が絡まり合ってそこからさらに枝が出ていたり、枯れたはずの葉が復活していたり・・・そんな一筋縄ではいかない時代―・・。それが90年代である。
それゆえ、これまでは「こういう時代でした、だからこういう音楽が受けました」という風に、時代とその時代を象徴するバンドやミュージシャンとを結び付けて語ることが出来たものが、90年代以降、そのようにおおざっぱに捉えることが難しくなる。
ブリット・ポップがそのいい例だ。ブリットポップもひとつのムーブメントには違いなかったが、あくまでイギリス国内だけのお祭りであり、パンクやヘヴィーメタルのように世界規模でフォロワーを生む現象にまでは至らなかった。つまり幹にはならなかった。
しかし見方を変えれば、このように特定の地域だけで完結してしまうムーブメントが生まれたということ自体、ロックが新たな局面に突入したことを示してもいた。
ビートルズらのアメリカ上陸(ブリティッシュ・インベーション)からグラム、パンク、ヘヴィメタル、グランジ/オルタナ、果てはアフリカ救済のチャリティー運動にいたるまで、ロックの歴史上、イギリスもしくはアメリカで勃興したムーヴメントがどちらか一方の国だけで完結した例はない。イギリスとアメリカは刺激を与え合いながら常に二人三脚でロックの歴史を紡いできた。
ブリットポップは、その例外となった最初で最後のムーヴメントである。最初で最後と言うのは、冷戦の終結によって世界がグローバル化するのと反対に、ロックは「ローカル化」「地域化」して行き、「ムーヴメント」と呼べるほどの「波」は起り得なくなるからである。
日本も例外ではない。それまで邦楽と同じように洋楽も好んで聴いていた日本人が、この頃から突然何かに目覚めたように洋楽を捨て始める。放送局を変えながらも84年から91年までの7年間地上波で放送されていた「MTVジャパン」も、91年には放送打ち切りとなり、ラジオでも洋楽よりJ‐POPが流れることが多くなる。
カート・コバーンが自殺し、オアシスがデビューする94年には、TRFがシングル5枚連続ミリオンセラーを達成し、EAST END×YURIの「DAYONE」が日本語のラップミュージックとしては初のミリオンヒットを記録する。この頃にはもう、洋楽を中心に好んで聴く若者は少数派となっていたとみていい。
これには、グランジやヒップホップなどメロディを軽視した音楽についていけなくなった、日本人でも洋楽レベルの音楽を作れるようになった、バブルが崩壊し景気対策として国内需要を高めようとした、などなど色々な理由が考えられ、一概にこうだとは言えないのだが、ひとつ確かなのは、イギリスと日本という世界でも有数のロック消費国/先進国である二国が、ほぼ同時にアメリカ産の音楽から自国産の音楽へと移行していったことである。
どうしてこんなことが起こるのか−−。
これには世界情勢の変化が影響していると考えられる。ソ連の崩壊によって冷戦が終結すると、アメリカの一極支配が始まり、かつてのような<自由主義諸国or社会主義諸国>から、<アメリカorアメリカ以外の国々>という構図に変わる。
ソ連という共通の敵を失った自由主義諸国は、対外的にはアメリカとの友好を維持しながらも、アメリカの踏み台になることを恐れ、また警戒してもいた。特にイギリス人は、80年代にアメリカ型の新自由主義を導入して国内市場を外国資本に奪われた、という経緯もあり、なおのことアメリカの一極支配に対する警戒心は強かったはずだ。
であるならば、ブリットポップに代表されるロックの「ローカル化」は、アメリカ中心になりつつあった世界情勢への反発と見ることもできよう。日本人が同じような意識でいたかははなはだ疑問だが、少なくともアメリカの音楽シーンを盲目的に追いかけるのをやめ、独自のシーン(J-POP産業)を構築し始めた、という点で「脱・アメリカ」と言える。
「細分化」とは、読んで字のごとく細かく分かれることだが、「分かれる」ということは、一つ一つの枝が独立して伸びていく、ということでもある。これまでは「時代」という大きな太い幹から「新しいロック」という枝が芽生えていたものが、幹のなくなった90年代からは混ざり合った無数の枝の集合体を一本の幹と認識しなければならなくなる。
こうなると当然、価値観も多様化する。何が正しくて何が悪いのか、何がトレンドで何が時代遅れなのか、基準となるべく「今」が曖昧なため、その判断は雑誌やテレビではなく、個人にゆだねられるようになる。ニーズが多様化し、一見時代遅れともとれるスタイルのバンドやミュージシャンにチャンスが巡ってくる・・・。
そのモデルケースとも言えるのがシェリル・クロウだ。彼女は80年代中頃からマイケル・ジャクソン、ドン・ヘンリー、ロッド・スチュワートといった大物アーティストの下でバックコーラスなどを経験し、ソロとしてデビューする機会を待っていた。91年にはその夢がかなう一歩手前まで行ったが、レコード会社に「大衆受けする要素に欠けている」とダメ出しされてしまう。
アコースティック色の濃い、ブルース/カントリーに根ざした彼女の音楽は、まだホイットニー・ヒューストンやマライア・キャリー、ジャネット・ジャクソンといったパワフルな女性シンガーが活躍していた91年の時点ではただの「古臭い地味な音楽」にしか聴こえなかったのである。
しかしそれから2年後の93年に発売されたファーストアルバム「チューズデイナイト・ミュージック・クラブ」は全世界で700万枚を超えるヒットを記録する。「トレンド」を求める時代から「トレンドから外れたもの」を求める時代に変わっていたのである。
「脱トレンド」が「トレンド」になりうる成功例としてもう一人挙げるならば、レニー・クラヴィッツだろう。彼はシェリル・クロウより4年前の89年にすでにデビューしていたが、ドレッドヘアにフライングV、ジミヘンそっくりのギターリフといった彼のファッションや音楽性は「今」が曖昧になった90年代だからこそ受け入れられたスタイルである。
しかし、この「時代錯誤性」こそが「トレンド」になりうるという方法論を確立させたのは、実はレニー・クラヴィッツでもシェリル・クロウでもない。一本の映画である。
奇しくもカート・コバーンの自殺、オアシスのデビューと同じ94年に公開されたその映画のタイトルは「パルプ・フィクション」。
この映画は、その後の音楽の在り方を考える上でも非常に重要な作品である。
映画の内容は今さら説明するまでもないだろう。二人のギャングが「Fワード」を連呼しながら人を殺したり、踊ったり、車のバックシートを掃除したりする話である。スターらしいスターはB・ウィリスが出演しているだけ。時間軸は前後するし、血なまぐさいし、音楽は古臭いロックンロールやサーフィン・ミュージックだし、とてもじゃないが大衆受けする映画ではない。
「ジョン・トラボルタも出ているじゃないか」と言われそうだが、94年当時のトラボルタは完全に「あの人は今」的な存在であり、誰もが忘れかけていた「過去のスター」だった。
しかしどういう訳かこれが「タランティーノ・ショック」と呼ばれるほどのヒットを記録した。
それは、この映画がトレンドから逸脱した時代錯誤の塊のような映画だったからである。上にも書いたように、「今」が曖昧な時代においてこのようなタランティーノの「古いも新しいもない、格好よけりゃイイだろ」という方法論は、90年代という時代のひとつの「答え」として映ったのだ。
冒頭に流れるディック・デイル&デルトーンズの「ミザルー」を聴いて鳥肌を立てた若者がどれだけいたか。そしてその曲を買い求め、ギターで弾いてみた若者がどれだけいただろう。1962年の曲とも知らずに!
「サタデー・ナイト・フィーバー」の70年代然としたイメージが強すぎて誰も使おうとしなかったトラボルタの起用も、「ミザルー」同様の効果を発揮した。「パルプ〜」以降、トラボルタは引っ張りダコとなり、スターとして返り咲いた。
レニー・クラヴィッツやシェリル・クロウの音楽が受け入れられたという事実から、すでに「脱・トレンド=トレンドになりうる」という兆候は見てとれたが、「パルプ・フィクション」は、そのような「今」がない時代にタランティーノが突きつけた最後通牒であり、トドメの一発だった。
その証拠に、「パルプ・フィクション」以降、映画、音楽を中心とするサブカルチャーでは、それこそまさにゴールドラッシュのような「大・発掘時代」に突入する。「パルプ・フィクション」のディック・デイル&デルトーンズに倣えと、一斉に過去の名曲が使用されるようになるのだ。
ざっと思い浮かぶだけでも、「恋する惑星」の「カリフォルニア・ドリーム」(ママス&パパス)、トレイン・スポッティングの「ラスト・フォー・ライフ」(イギー・ポップ)、アップル社「Imac」のCMの「シーズ・ア・レインボー」(ストーンズ)、ドラマ「アリー・マイ・ラブ」の「ユア・マイ・エヴリシング」(バリー・ホワイト)、ソフトバンクのCMの「ロコモーション」(グランドファンク)・・・
つまり、「パルプ・フィクション」はひとつの様式を作り上げたのである。
ロックは<時代的必然性の産物>から、単なる若者が好む娯楽の一ジャンルに成り果てた。
しかしこれとて「時代的必然性の消滅という時代的必然性」とも言え、レニー・クラヴィッツやシェリル・クロウをはじめ、それを体現したミュージシャンも登場した。そして「パルプ・フィクション」が決定的にした「時代錯誤」=「トレンドになりうる」からさらに「ノスタルジー」という要素が加わり、ロックの歴史はますます混沌として行くのである。
最後にハードロックについても少し触れておこう。
ハードロックの分野では95年にキッスがメイクアップ&オリジナルメンバーで奇跡の復活を遂げ、99年にはバックチェリーという大型新人がデビューする。1999年という年はボンジョヴィが5年ぶりにアルバム「クラッシュ」を発表し英国チャート1位、日本オリコンチャート2位、米ビルボード9位という快挙を成し遂げた年でもあり、グランジによって時代の外へ押しやられていたハードロック界に光がさした年でもあった。
そして01年にはあのハノイロックスが再結成し、ご機嫌なパーティロックを身体全体で肯定するバンド、アンドリューWKが鮮烈デビュー。
このほかダットサンズ、ザ・ダークネス、シルバータイド、ネガティヴなど次々とフレッシュな新人が現れ、シーンに活気が戻った。
さらに04年にはジャック・ブラック主演の映画「スクール・オブ・ロック」が大ヒットし、グランジによって貼りつけられた「ハードロック=悪」「ヘヴィメタ=NG」というレッテルは、ようやく剥がれ始めたのである。
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