3. ボブ・ディラン〜政治と音楽〜  BOB DYLAN

アメリカの多くのミュージシャンがイギリス勢の勢いに押されていた当時の状況下でも例外はあった。スティーヴィー・ワンダーシュープリームスなどを擁するリズム・アンド・ブルースの老舗「モータウン」だけは、こういったイギリス勢の進出に動じる事なく次々とヒットを量産して行った。
 これは別にモータウンのほうが優れていたとか、そういう話ではなく、黒人歌手中心のモータウンと、白人中心のロック/フォークはマーケットとしても文化としても距離があったからである。つまり、リスナーの層が違ったのである。

さて、ボブ・ディランによって開拓された、当時のフォーク・ブームについて語ろう。
 ビートルズをはじめとしたイギリス勢が渡米した頃のアメリカでは、主に若者を中心としたベトナム戦争反対運動や反体制・反政府運動の炎が広がりつつあった。ある者は反戦平和を掲げ、ある者は人種差別撤廃を叫び、またある者は男女平等を謳い、ある者は表現の自由・言論の自由を求めて走り回る。60年代は若者が積極的に政治に参加し、問題意識をぶつけた時代であった。

こうした運動熱心な学生たちに支持されていたのがボブ・ディラン等のフォークミュージシャン達だったのだが、当時は、彼らのように社会に対し問題意識を持った曲を唄うフォークシンガー達をひとくくりに「プロテスト・シンガー」と呼んでいた。プロテストとは「異議を申し立てる」または「抗議する」という意味である。
 そしてフォーク支持者たちはラヴ・ソング中心の、無難で型にはまった音楽を嫌い、社会風刺的な詩世界のあるフォーク・ソングを好んでいたのである。

ボブ・ディランは62年のファースト・アルバム「BOB DYLAN」では、ほとんどの曲が自作ではないカバー曲であったが、続く63年の「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」でいよいよその独自の詩世界を打ち出してゆく。そして63年のサード・アルバム「時代は変わる」、64年の「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」の成功によって、彼はフォーク・ファン達から厚い信頼と支持を勝ち取ることになる。
 特にセカンド・アルバムに収録されている「風に吹かれて」や「戦争の親玉」では反戦や人種差別をモチーフにした歌詞が歌われ、社会運動に躍起になる若者たちのアンセム(シンボル的な唱歌、応援歌)的な曲として扱われる。

どれだけ道を歩いたら 一人前の男として認められるのか?
いくつの海を飛び越したら 
白いハトは砂でやすらぐことが出来るのか?
何回弾丸の雨が降ったなら武器は永遠に禁止されるのか?
そのこたえは、友よ、風に舞っている

こたえは風に舞っている

 (中略)
何度見上げたら 青い空が見えるのか
いくつの耳を付けたら為政者は

民衆の叫びが聞こえるのか
何人死んだら分かるのか

あまりにも多く死に過ぎたと
そのこたえは、友よ、
風に舞っている
こたえは風に舞っている

Blowin' in the wind (邦題「風に吹かれて」)
ボブ・ディラン グレイテストヒッツ第一集 片桐ゆずる訳引用 

 アメリカに進出したビートルズは、このような音楽が社会運動と結びついている状況に驚いた。イギリスでも学生運動はあったが、アメリカほど激しくはなかったし、パワフルでもなかった。ジョン・レノンにいたっては、ディランと面会したときに「君達の音楽には主張がない」とまで言われてしまっている。
 
以降ビートルズは、音楽的な変化とともに詞の内容も変化して、政治や社会についてのメッセージを含んだ楽曲も発表するようになる。

その一方でボブ・ディランもまたビートルズの影響により、それまでアコースティック・ギターだったものをエレキ・ギターに持ち替え、1965年に発表したアルバム「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」はロックサウンドを取り入れたものとなり賛否両論を巻き起こした。
 そして、アルバム発表の同年に開かれたニューポート・フォク・フェスティヴァルにおいてディランが大掛かりな機材を持ち込み、大音響でエレキ・ギターを鳴らすや、頑固なフォーク・ファン達からブーイングの嵐が巻き起こるという事件まで発生。

 
ディランは仕方なくステージを降りたが、関係者に説得され一人だけで再びステージに戻り、アコースティック一本で「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」(すべておしまい)という曲を演奏した。これは今や伝説である。
 しかしながらこのディランのアルバム「ブリンギン〜」は全米6位、全英1位に輝きディランのそれまでのどのアルバムよりも売れたのであった。
 
このアルバム以降ディランは歌詞の中に社会問題をテーマに取り上げているような曲は身をひそめていき、その活動スタイルも徐々に社会運動的なものからは距離を置くようになる。

といっても、60年代の前半はビートルズを筆頭としたイギリス勢がアメリカに「ロックの逆輸入」をしたのを皮切りに、米英双方の若いミュジシャン達がお互いに刺激し合い、音楽的な面で大きく変化していったのと同時に、ロックン・ロールが若者たちの間で社会運動のシンボルとして支持されるようになりはじめた時期であったことは間違いない。

第4話「狂宴のサイケデリック〜3Jとアメリカの青春〜」 ⇒



「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」
名曲「風に吹かれて」「戦争の親玉」「激しい雨が降る」収録




3rd 「時代は変わる」




4th 「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」
前作で築いたプロテストシンガーとしてのイメージを嫌い、より内証的な世界へ向かおうとするディランの姿が垣間見える。
名曲「マイ・バック・ペイジス」ほか収録



ブリンギン・イット・オール・バックホーム」
フォークからロックに目覚めたディラン、その一発目がこれ。同じ年にディランは↓の二作も発表。



「追憶のハイウェイ61」
6thアルバム。
名曲「ライク・ア・ローリングストーン」収録




エレキ三部作の最後を飾る名盤「ブロンド・オン・ブロンド」(66年)








ニューポート・フォーク・フェスでのボブ・ディラン


    



産業廃棄物許可