GRUNGE 21. グランジ・オルターナティヴ 

湾岸戦争
イラクのクウェート侵攻を
機に米軍を中心とする
多国籍軍がイラクを
空爆。
連日、暗視カメラの攻撃映
像がテレビで流された。




クリス・コーネル率いる
サウンドガーデン




サブポップのロゴ




ソニックユース
「グー」(90年)


ソニックユース



ニルヴァーナ



ニルヴァーナ
「ネヴァーマインド」

大量消費とダンス、ファッション、パーティーに夢中になれた「栄光の80年代」は、イラク戦争、ソ連の崩壊など、激変する世界情勢の渦にもまれながら、急激に風化して行く。
 そんな中、否が応でも社会情勢に目を向けざるを得なくなった大衆は、今までの10年がナンセンスであり、非現実的、虚構だったのでは?と思い始めたのだった・・・。

 
 前のページでも触れたように、ガンズやメタリカの切羽詰まったような、まっ裸で社会に体当たりするような強固な姿勢は、社会意識が高くなり無邪気なパーティーにも飽きた若者たちの絶大な支持を得た。
 そしてそんな何かが起こりそうな、ヒリヒリした得体の知れない危機感が漂う時代の雰囲気も見事に表していた。
 時代は変わろうとしていたし、大衆も又「新しい何か」を望んでいた。

88年、ロサンゼルスを中心とする西海岸から遠く離れた、ロッキー山脈の麓、アメリカ西北部の中心都市シアトルで、スケボールックでレッド・ツェッペリンとブラックサバスを混ぜたようなジャンル不明のヘヴィーロックをやっていたバンドがサブ・ポップなるインディー・レーベルからデビューする。
 彼らの名はサウンド・ガーデン

 サウンドガーデンは89年にメジャー・デビューし、その名と、その捉えどころの無い音楽性を(商業的には失敗したが)ロックの新しい様式として打ち出し、一部のアングラ音楽ファンに圧倒的に支持された。
 後に彼等は「グランジの祖」と呼ばれることになる。

同時に、サウンド・ガーデンを発掘したサブ・ポップも、地元シアトルはもとより、国内外の音楽業界から、にわかに注目され始める。
 80年代も終わるころ、「ロックの聖地」ロサンゼルから遠く離れたシアトルで、新たなるムーブ・メントが動き出そうとしていたのだ。
 90年にはソニック・ユースが「グー」でメジャー・デビュー。91年にはニルヴァーナが「ネヴァー・マインド」でメジャー・デビュー。同時にアリス・イン・チェインズがアルバム「フェイス・リフト」で、パール・ジャムがアルバム「TEN」でデビューする。

これらはいずれもシアトルを活動拠点にしているバンド達だが、彼等に共通しているのが、破れたジーンズに汚いTシャツやネルシャツという、乞食の様なスタイルと、ひたすら重苦しく、荒々しく、絶望感が漂っている詞とサウンドだ。
 しかしそんな厭世的(えんせいてき・孤独で世間と馴染めないこと)で、<ロック・スター>とはかけ離れた様相の彼等が商業的にも成功し始めた事により、無視できない一つのムーブ・メントとして、彼等は「オルターナティブ(代用品・何かの代わり)」だとか「グランジ(汚いもの、悪いもの、劣ったもの)」と呼ばれ始める。
 特にニルヴァーナの「ネヴァー・マインド」は、空前の大ヒットとなり、全米1位を記録し、「グランジ」というジャンルを完全に確立した。

グランジ勢は、その薄汚れたファッションと陰鬱な音楽と物憂げな態度で、完全に自分たちが80年代的な無邪気さ、華やかさから無縁であることを表現し、同時に、MTVやサントラ映画と言った、80年代に確立された<スター生産システム>を金儲け主義と軽蔑し、その中に取り込まれることを恐れ、それを頑なに拒んだ。
 ニルヴァーナのリーダー、カート・コバーンは、それを一番強く体現し、80年代的なものに限らず、あらゆる権威・体制・スター的なものに毒を吐いた。

その攻撃は、レコード会社やMTVだけに留まらず、既存のロック・バンドや音楽ジャンルにも及んだ。
 ガンズには「あいつ等にあるのはファッションだけ」と言い放ち、メタリカには「ニルヴァーナのTシャツを着せて宣伝に利用してやるんだ」とからかい、マドンナを「ブタ」呼ばわりし、ヴァン・ヘイレンを「軽薄なクソ・ヘヴィー・メタル」と吐き捨て、「ピート・タウンゼント(ザ・フーのギタリスト)みたいになる位だったら死んだほうがマシだ」と言ったり、レコード会社の書類には故意に自分の名前のスペルを変えてサインしたり・・・。

このほとんど無差別テロ的な言動は大きな共感と反発を呼び、「ニルヴァーナ・ショック」と言っても良いほどの一大センセーションを巻き起こした。

第22話「カートコバーンの死」 続きを読む⇒






    



産廃 許可 行政書士